広場
アベス広場
アベス広場では、旧修道院の女子修道院長たちの記憶を伝える地名と、パリの別の場所から移されたギマール設計のメトロ入口、二つの物語が出会います。
編集・選定 Arthur

広場で出会う二つの物語
アベス広場で注目したいのは、広場と印象的なメトロ入口のルーツが同じではないことです。地名はアベス通りを介してモンマルトルの旧修道院の女子修道院長たちへつながりますが、屋根付きの入口は別の駅で使われるために造られました。
この対比を知ると、小さな公共広場がぐっと面白くなります。モンマルトル自治体の道路網からパリの街路網へ編入された広場の歴史と、1900年に設計されたメトロ建築の旅を、同じ場所でたどれるからです。昔からここにあったように見える景色は、実は別々に始まった二つの物語の出会いによってできています。
修道院からメトロへ
アベス広場は、次の目的地を考えながら通り過ぎてしまいがちな場所かもしれません。しかし、立ち止まる理由はすでに目の前にあります。広場の名は古いモンマルトルの記憶を残し、その端に立つ屋根付きのメトロ入口は、パリの別の場所で始まったもう一つの歴史を語っています。
モンマルトルの女子修道院長を伝える名前
広場はアベス通りに面し、イヴォンヌ・ル・タック通りとラ・ヴィユヴィル通りが合流する場所にあります。現在の名は隣接するアベス通りに由来し、その通りの名はモンマルトルの旧修道院の女子修道院長たちに由来します。宗教上の呼称が、日常の街の地理へ受け継がれたのです。
以前は「プラス・ド・ラベイ」と呼ばれていました。1863年5月23日の政令によりモンマルトル自治体の道路網からパリの街路網へ編入され、その後1867年2月26日の命令でアベス広場という名が与えられました。二つの行政上の決定が、過去の記憶を残しながら、この場所を近代のパリに位置づけました。
オテル・ド・ヴィルから来たギマールの入口
屋根付きの入口はアベス広場にあまりによくなじんでいるため、エクトール・ギマールがこの場所のために設計したと思いがちです。実際は異なります。1900年にパリ地下鉄会社のために設計され、当初はメトロ1号線オテル・ド・ヴィル駅のロボー通り側入口に立っていました。
地下駐車場の建設に伴い、1972年に解体されます。そして2年後の1974年、アベス駅へ移され、ここで再び組み立てられました。現在の広場を象徴する建築になる前に、パリを横切り、路線まで変えたことになります。
この移動の記録が、入口が単なる装飾ではないことを物語っています。モンマルトルらしい雰囲気を演出するための複製ではなく、街の中を実際に移動した歴史的建造物です。経緯を知って曲線を眺めると、昔からそこにある舞台装置ではなく、旅をして生き残った建築として見えてきます。
12号線にある建築上の例外
アベスへの移設によって、珍しい組み合わせが生まれました。ギマールは、旧ノール・シュド網に属していたこの路線のために入口を設計したことがありません。現在、彼の作品は12号線への入口を囲んでいますが、もとの設計は別の依頼と別の駅のためのものでした。
入口は解体前の1965年7月に一度、歴史記念物として登録されています。現在の「歴史記念物(monument historique)登録」は、現存するギマールのメトロ建築群を対象とした2016年2月12日の命令によるものです。法的には「指定」ではなく「登録」であり、文化財としての価値は最初の場所を離れた後も引き継がれています。
最後に、広場の名とその横の入口を続けて見てみましょう。一方はモンマルトルの女子修道院長たちの記憶を残し、もう一方はオテル・ド・ヴィルから旅をしてきました。別々に始まった二つの歴史が、今ではアベス広場のわずか数歩の範囲で重なっています。
実用情報
まずアベス通りとイヴォンヌ・ル・タック通り、ラ・ヴィユヴィル通りの位置を確かめ、そのあと屋根付きの入口の周囲を歩いてみましょう。階段側から見るだけでなく全体を眺めると、単なる駅の入口にとどまらず、独立した歴史的建造物であることが分かります。
1900年の設計、オテル・ド・ヴィル駅への設置、1972年の解体、1974年の移設という順序を思い出しながら観察するのがおすすめです。アベス広場は入口や順路のある施設ではないため、この短い建築鑑賞をモンマルトルの散策に自然に組み込めます。
写真クレジット
Arthur Weidmann· CC BY-SA 4.0· Wikimedia Commons · サイズ調整済み。表示箇所によりトリミングが異なります。